大沼と駒ヶ岳

相対の妙 大沼と駒ヶ岳

大沼国定公園内にある大沼、小沼、そしてジュン菜沼は、それら自身のもつ美しさだけでも訪れる人たちを堪能させます。
しかし、秀峰駒ヶ岳と対時させるとき、その美しさは両者のコントラストによって強調され、華麗に変身し、目を見張るほどの風光が限前に広ります。 大沼国定公園の歴史をひもとくとき、同時に「秀峰駒ヶ岳」の成りたちを語らなければ、大沼そのものを語り尽くすことはできません。

20060326143653駒ヶ岳が記録にとどめられた文書のうち、もっとも古いのは寛永17年(1640)の大噴火のくだりです(『松前年年記』成立年不祥)。これらの記録や、その後の地学の研究成果などからその概略を記してみます。

寛永の大噴火では、数時間のはげしい山鳴りのあと、山頂付近の一部が大崩壊し、岩屑なだれが発生しました。岩屑なだれが噴火湾に流れ込んだため大津波が起き、沿岸で700人以上の人々が犠牲になりました。 噴火は3日ほどつづき、その後は急速に鎖静化し、70日ほどでおさまったといいます。 一説に「このときの岩屑なだれが南側山麓を覆い、折戸川などをせき止めて大沼・小沼を形成した」といわれています。

駒ヶ岳 噴火の歴史

昭和39年に七飯町が発行した「七飯町の地質」に従って、駒ヶ岳の生成と噴火のプロセスを推測してみます。
駒ヶ岳は50万年ほど前に噴火をくりかえしながら、1,700メートル級の大きな円錐形火山に成長し、5万年~3万年前の大噴火により、山体の上部3分の1ほどが大崩落を起し、現在の姿に近い山体になりました。(噴火と流れ山参照)
このとき、崩落泥流が裾野の河川をせき止め、古大沼というべき湖水を形成したと考えられます。その後、何度かの噴火活動によって、古大沼は分断され、大沼、小沼、ジュン菜沼などが形成されました。

その後、2万5千年ほどの休止期を経て、6千年前に降下火砕物と火砕流を噴出し、ふたたび500年あまりの休止期に入りました。
5500年前に降下火砕物と火砕流を噴出し、さらに5100年ほどの長い休止期をおいたあと、江戸時代に入って活動が再開しました。
今の駒ヶ岳は4回目の活動期にあるわけです。
この4回目の活動期の最初の噴火が、前述の寛永の大噴火であり、ほぼ現在の気品ある山容が形成されました。 それまでの数十回におよぶ火山活動によって、山頭部が大きく崩れ、火口原を取り巻く外輪山として、主峰の剣ケ峯(1,131メートル)、砂原岳 (1,113メートル)、隅田盛(892メートル)、稜線の駒ノ背(約900メートル)、馬ノ背(約850メートル)が形成されました。

寛永の大噴火以来、現在までの350年ほどのあいだに、駒ヶ岳は大小十数回の噴火をくりかえしていますが、平成10年10月25日の小噴火が、もっとも新しい記録です。 その間の大噴火は、寛永の大噴火を含めて4回あります。

2回目の大噴火は、安政3年(1856)9月25日に起きました。その日、朝9時ごろからはげしい噴火がはじまり、東山麓に厚い降下火砕物を降らせ、17軒の家屋が焼失し、2名の死者と多くの負傷者をだました。一方、東南山麓では降下火砕物につづいて火砕流が流れだし、20人以上の犠牲者がでました。この 噴火で山頂に直径200メートルほどの火口(安政火口)が生じ、その中に溶岩ドームが形成されました。

3回日の大噴火は、安政の大噴火から73年後の昭和4年(1929)6月に発生し、火砕流をともなう破局的な規模で、わが国では今世紀最大といわれます。
噴出した火山灰や軽石などは、長崎県雲仙・普賢岳の約2倍、しかも一昼夜で噴出したといいますから、その爆発のすさまじさは、想像を絶するスケールであったにちがいありません。
この噴火では、6月15日、鳴動。同16日、2度の地震。同17日未明、零時30分ごろから小噴火がはじまり、10時ごろはげしい軽石噴火となり、噴煙柱 は高度1万4千メートルに達し、12時30分ごろにはいよいよ勢いを増し、火砕流も発生し、同日24時ごろまでつづき、その後急速に衰え18日3時に終息しました。
しかし、翌日は降雨のため泥流が山麓を襲い、被害を増大させたといわれています。

この噴火で南東山麓の鹿部という村(現在の鹿部町)は、1メートル以上の降灰、降下軽石などでおおわれ、死者は2名と少なかったものの、家屋の全焼全壊365戸、半焼半壊1,500戸のほか、家畜や耕地、漁場などにも甚大な被害をもたらしました。

この噴火はまた、安政の火口を埋め尽くし、新たに昭和4年大火口(直径230メートル)が形成されました。

昭和4年の大噴火から13年後、昭和17年(1942)11月16日、朝8時ごろ鳴動とともに噴火がはじまり、噴煙が8千メートル上空に達し、火口付近に は火柱が観察されました。火砕サージも発生しましたが、幸い山麓にはいたらず、火山灰が数センチ積もったにとどまり、とくに大きな被害はありませんでした。
しかし、山頂火口原には、北北西から南南東方向に延長約1,600メートルの割れ目が生じました。