交通の要衝 小沼蓴菜沼付近
このように大沼は一方では信仰の地として、他方では風光の名所として徐々にその名声を広めていくのですが、実は、武四郎が絶賛した大沼は、現在の大沼公園付近ではなく、現在の小沼と蓴菜(じゅんさい)沼のことです。
このあたりは、公園付近に比べて歴史は古く、約2000年ほど前に一大集落であったと推測されている。
江戸時代から幕末、維新を通じて、この小沼・蓴菜沼のあたりは、函館から小樽方面へ抜ける交通の要衝であり、維新のころには十戸内外の家があり、宿場としての役割を果たすとともに漁や炭焼きに従事していました。
蓴菜沼は、明治5年(1872)に北海道開柘使次官・黒田清隆がこの地を視察したとき、この沼で蓴菜が多く採取できるということで名付けられましたが、それまでは「白鳥の沼」と呼ばれていました。
この地を通過する新国道ができた明治5年、宮崎重兵衛という人が旅館を開業し、ニシン漁に従事する人々で賑わい、同時に観光目的でこの地を訪れる人々も年々多くなってきました。
勧光客の多くは函館方面からの人々で、そのなかに函館港に入港する外国艦船乗組員が多数含まれていました。
彼らは湖畔で憩い、ボートをこぎ、とくに駒ヶ岳登山を好んだようです。
明治12年(1879)、当時のドイツ皇弟ハインリッヒ殿下が軍艦で函館に来られたとき、宮崎旅館に一週間滞在し、それ以後、明治13年、32年と計3度にわたって来遊されており、ジュン菜沼の風光をたいへん愛されました。
そのほか、イタリア皇族のゼノア公、日本の皇族では維新の元勲・小松宮殿下、有栖川宮殿下などが来遊されています。
明治14年(1881)には、当時29歳の明治天皇が、北海道巡行途中にお立ち寄りになられ、峠の上の御野立所で、天空にそびえる秀嶺・駒ヶ岳、風光絶佳の大沼・小沼を一望され、感嘆されたということです。
峠の頂上あたりには、5~6軒の茶屋があり、この茶店から見わたす駒ヶ岳、大沼・小沼の美しさは旅ゆく人たちをして嘆声を発せしめたということです。
しかし、明治36年(1903)の函館・小樽間の鉄道の開通以後、この地の賑わいは往時の風光をそのままに衰微の一途をたどり、現在の大沼公園付近へと移っていくのです。
さて一方、現在の大沼公園のあたりはといいますと、古記録に垣間見られるように、深いぬかるみを含む湿地の山林地帯でした。蓴菜沼が賑わいを見せていたころも、蓴菜沼の小景を知って大沼の風光を知らず、という人たちがほとんどで、住みつく人もなく、炭焼きをする人がときどき訪れる程度でした。
大沼の南方に軍川という村があり、大沼はその村の一部でした。